前略、アララト山より

書きたくなったら書く

前略、アララト山より

題はブログ名の紹介です。アララト山旧約聖書『創世記』において、ノアの方舟が洪水後に辿り着いた地とされている。特にこの名前に拘りはなく、思いついた単語だっただけというのがここまでの前説。

 

春から大学生となる。センター試験の爆死を教訓とすることもなく私立大に挑んだ結果まあまあな所に収まってしまった。申し訳程度に出願した公立大も案の定落ちている。

受験に対する努力を惜しまなかった者は、本命併願に関わらず出願した大学への心持ち(「A大は絶対抑える」「B大は本命。ここ以外あり得ない」)が人一倍なのは間違いないだろう。逆に私のようにやる気をなくしてしまうと「どこでもいいから」とか「早く終われ」と煩悩ばかりが先行してしまう。受験なんて多少ハイな状態のほうがいい。私としてはTwitterという受験生にとっての違法薬物から足を洗うことが出来ただけマシではあるが。

今受験を終えTwitterを再開し友人のツイートを見る中で、受験期を薬物と共に過ごした者のツイートに散見されるのが受験会場での活動である。受験会場でSNSとはなかなかの芸当ではないかと私は思うが世の中そうでもないのかもしれない。余裕が無くて大急ぎで単語帳やらを漁っていた自分を戒めたいと思う。

 

反省はここまでにして、高校生で始めたこのブログの今後について述べていきたい。私のスマホのメモには独り言が書き殴られているページがあり、良くも悪くもネタの宝庫と化している。そこから掻い摘んで話を発展させてみたいと考えている。とある方のブログ内の独り言コーナーのスタイルを真似たい。自分の思考を端的かつ論理的に文章に昇華させる力は、今の短文化された文ばかりが氾濫するこの時代では貴重な能力であろう。

 

そんな訳でこのブログが三日坊主にならない様願っておいてくださいな。では。

つかれてんだろうな

最近よくわからん心情になってきたので140字以上書けるこの空間を利用しようと思った所存です。

 

 

自分の人生における正確な記憶の始まりは、とある日の幼稚園の昼食からである。オレンジの容器に入った桜でんぶのご飯と、緑の容器に入ったおかずたち。クラスメートと思わしき同年代の子たちと食事を共にした。後は、昼休みに体育の教師を呼び捨てで呼んだという理由でこっ酷く叱られたという記憶も残っている。

 

……こう怒られた記憶というものを思い出す度に少し嫌な気分になるのは私だけだろうか?

 

ここからが本題。私の今までの生き方を振り返ってみると、その殆どがフロックや自分以外の人間のおかげで成功した部分が多いような気がしてならない。今の状況を例えるなら、宝くじで億万長者になって貯めた金を少しずつ使い続けて、とうとう一文無しになってしまった感じだろうか。

一番深刻なのは、そういう考えに至る度に「このままでは駄目だ」という決意をするのにも関わらず、いつの間にかそれを忘れこうやってまた一日が終わろうとしているこの現状である。

 

「もうそんなこと言ってられないよ。高校三年なんだから」「いや、そうなんだけどさ。………うん。そうなんだよ。」自問自答の毎日です。何もしとらんのに疲れてるのがなんかバカらしくなってきた。

 

 

また書きたくなるときまで

 

 

 

 

ともだち

今回は私の小中学の同級生について紹介しようと思う。といっても彼と親友という間柄になったのは同じ部活に入った中学の頃からである。

 

彼は(無意識なのか分からなかったが)誰に対しても笑顔で接していたのが印象的であった。それは決して偽りの表情ではなかった。真摯に向き合っていた。今思えば、彼は何事にも本気で立ち向かっていたように感じる。そんな姿を見て私は不思議と「嫉妬と憧れ」を感じていたのだった。

或る時彼とカラオケに行く機会があった。彼のほうから私を誘ってくれたのだった。彼が最初に選曲したのはBUMP OF CHICKENの天体観測。いつも最初に歌っているという彼の天体観測はかなり上手だった。ただ上手いのではなくそこに音楽のセンスを感じ、私は只々圧倒されるだけだった。

 

彼だけではない。私はその才能や性格、考え方などを吸収すべき人を中学の3年間で沢山見てきたように思う。

他人の行動を見るだけならタダで幾らでもできる。しかし、それらを自分の中で吟味し自分の行動に移さなければ何の意味もないのである。誰だってそんなことくらいは分かっている。だが、中学生の私にはそこまでの考えが備わっていなかった。

 

現在彼は、都内のとある高校でバンドのボーカルを担当しているようである。「よう」なのは、約1年前Twitterで中学のことを検索していたら偶然彼のアカウントを見つけたからである。連絡を取るべき場面ではあったのかもしれないが、自分が今の高校に進学した理由を考えると自然とそれをしようとは思わなかった。それだけの薄っぺらい覚悟でこの高校にやってきた、そんな気持ちが湧いてきたのだ。アホらしい。

 

そんな彼のバンド活動が楽しいものであってほしいという届かぬ想いを込めて、結びとする。

 

 

また書きたくなるときまで

 

 

 

おもいしること

私が中学校の進路講話に参加することにしたのは、自分の経験を伝えたいからというのは建前で、自分の中身の無さを自分自身に思い知らせるのが本当の目的だった。中学生のみんな本当に申し訳ない。

 

実際私は今の比較的生温い環境に一年半も甘え続けていて、先輩や同級生たちは目を輝かせながら私より何千歩も先の世界を描いた話をしていた。ていうか話すの上手すぎ。いや僕が下手なのか。

 

何故ここまで酷いことになってしまったのだろう?だからと言って中学生の私がしっかりとした生徒だったのかといわれれば疑問が残る。担任だった先生に「最近どう?」くらいしか聞かれなかったのは、そういうことだったのかな?それにしても、印象が薄すぎるんじゃねえかな。

 

帰宅後に講話での出来事を母に話すと

「あんた、今まで本気で悔しいと思ったことないよね」

と言われた。その通りだった。今まで勉強も部活もゲームも何もかもテキトーにこなして、その結果に「まあこんなもんか」とか半端な理由をつけて自分の中で勝手に納得していたのだ。誰だってテスト前くらいは本気を出す。私にはそれすら無かった。「なんで高校のランク下げたの」とかもっとストレートに言ってくれたほうが気持ちが良かったのかもしれない。

 

 

また書きたくなるときまで

 

 

 

ごはん

同じ部活の友達と二人でラーメンを食べに行ったとき、彼の話にとても感心されられたのでここに紹介する。

 

彼の家では、幼い頃からテーブルマナーを厳しく躾けられていて、行儀の悪い食べ方を目にしたときは、少しイラッときてしまうのだそうだ。彼の所作はただ食事をする為の動きでなかったのは確かで、特に私がそう感じたのは、食べ終わったあとに箸でティッシュを挟み、ラーメン鉢の輪郭についていた汚れを拭いていたところ。残り汁で雑炊にしていた私は、そのとき妙に申し訳ない気持ちになってしまった。

 

箸や茶碗の持ち方、手の使い方など、食事のときの他人の動作は自分の思っていた以上に目に入ってくる(個人差あり)。こんなことをTwitterで言うと、「親の教育がどーのこーの」とか「気にしたら負け」と言われそうだが、やはり最低限のマナーは守ってほしいというのが私の意見である。ぼくも気をつけます。

 

 

また書きたくなるときまで

 

 

 

あれもほしい これもほしい

いまあなたは何が欲しいですか?

この質問にすぐに答えられる人もいれば、そうでない人もいる。回答もいわゆるモノだったり希望だったりと様々。ちなみに私はフィギュアが欲しい。

 

『マツコ&有吉の怒り新党』での宝くじに関する彼らのトークが印象に残っている。「滅多に当たらない宝くじを買う理由がわからない」という質問に対して、「確かに宝くじは当たらないことのほうが多いけど、当選番号が出るまでの、もし1等が当たったら高級車を買おう、とかそういうことを妄想してる時間の為にお金を払っているんじゃないかな。その時間は宝くじの値段以上の価値があると思う」というような結論に至っていたように記憶している。つまり、叶わないであろう夢を想像する時間に対してお金を出しているということだ。

一攫千金を夢見る宝くじとは考えは違えど、何かを猛烈に欲しいと思っているときに、人は言ってしまえばある種の幻想に取り憑かれていて、時間やお金を費やしていると言えるのかもしれない。

 

まあ、こんなダラダラと文章を書いておいてから言うのもあれだけど、欲しいと思ったものをそれが一番欲しいと思っているときに買うことができるのはとても幸せなことだし、否定的に見られがちな衝動買いも、後々のことを考えればリスキーではあるが悪いことでもないのかなと思ったりした。

 

 

 

また書きたくなるときまで

 

 

はじめに

ブログはじめます。

ふと思った事とか日常をつらつら書きたいなと思います。

もしあなたがこのページを見つけたなら「あっ、この人ブログなんかはじめたんだ。」と思って優しい心で見守っていてください。

では。